一年で一番長い日 47、48浮遊感なのか圧迫感なのか、何とも言えない妙な感覚。高層階行きのエレベーターは、さすがに早い。いつものように密かに願う。落っこちませんように。 微かな衝撃とともに停止し、ドアが開いた。専用キーを手に、青年は俺に降りるように指示する。やはり、特別フロア。あのスイートルームのある階なんだろう。出て行くぶんには非常階段もエレベーターもお咎め無しだが、入る時は専用のキーが要る。 あの時は夢中でこのフロアのことは何も覚えていない。エレベーターで降りれば良かったのにわざわざ階段を使うなんて、よほど動転していたんだなと思う。 普通の客室階と違って、ドアの間隔がやたらに広い。フロア全体で何室なんだろう。そんなことを考えている間に、青年がひとつのドアの前で止まった。ベルを鳴らす。 俺は突然怖くなった。このドアの向こうにいるのは、一体誰なんだ? 青年と同じ顔の、男か、女か-- 死んでいた女の顔が浮かぶ。嫌だ。どんなひょっとこでもお多福でもいい。違う顔が見たい。 ドアが開いていく。 この際、ドアを開けたら別の世界だった、ということを希望したい。ナルニア国でもファンタージエンでもいいから、ここではないどこか。別の世界へ。死体とともに目覚めたあの日を思い出さずに済むのなら、それはどこよりも素晴らしい世界だ。 一瞬のはずなのにスローモーションのように見えたのは、俺の意識が拒否しているせいだろうか。重厚なドアの向こうから現れたのは・・・ 目のくりくりした可愛い男の子だった。 緊張の反動だろうか。心臓がばくばくして苦しい。青年は男の子の頭を撫でると俺をふり返った。 「どうぞ。入って?」 「あ、ああ・・・」 俺はぎくしゃくと青年の後に続いた。広い部屋の内装は豪華で、座り心地の良さそうなソファセットに男の子がちょこんと腰掛けていた。青年はドアの前に突っ立ったまま固まっている俺を不思議そうに見つめる。 「どうしたの?」 俺の口は無意識に言葉を発していた。 「アポトキシン、何だっけ・・・」 「は?」 「えっと、子供になっちまう薬。黒い服の男に薬をのまされて・・・」 「『名探偵コナン』のこと? やれやれ。すごい想像力だな」 呆れたように青年は言った。だってしょうがないじゃないか。亡霊に出会うかと思ったのに出てきたのは子供。これだって充分俺の想像外だよ。 ---------------------- 「えっと、この子は?」 俺は訊ねた。なんでこんなところに子供がいるんだ。四、五歳といったところか。ののかと同じくらいに見える。一言もしゃべらないが、知らない小父さん(俺だ)が怖いのかな? 「この子はね、俺の甥っ子。夏樹っていうんだ」 青年は慈しむように子供の髪を撫でる。夏樹というらしい男の子は、気持ち良さそうに目をつぶると小さくあくびをし、青年にもたれて眠ってしまった。部屋の隅に積み木が重ねてある。ひとりでおとなしく遊んでいたんだろうか。 俺の視線を追って、青年は小さく微笑んだ。 「木のおもちゃは子供にいいっていうからね。小さいうちは想像力で遊んで欲しいから、ゲームは与えてない。もう少し大きくなってからだね、ああいうのは。この子にも友だちを作ってやりたいし・・・」 後半呟くように言った青年を見て、まるで父親みたいだと俺は思った。おれもののかが生まれた時はいろいろ考えたさ。つかまり歩きが出来るようになったら、愛子様と同じ手押し車を奮発して買ってきた。 子供が後ろにひっくり返ったりしないように、前進しかしない造りになっている手押し車は、ののかが押して歩くたびにカラフルな動物がカタカタ鳴って、かわいかったものだ。 木のおもちゃは、大人もなんとなく和めるのがいいと思う。そういえば、前の会社の営業成績ナンバー・1の後輩は、独り暮らしのマンションにとことこ歩くだけの単純なおもちゃを置いていた。殺伐とした心が、ぼーっとそれを見ているうちに落ち着いてくるんだと言っていたな。 三歳児がおもちゃで遊ぶのと、疲れた大人が同じおもちゃで和むのとでは意味合いが違ってくる。大人は遊ぶんじゃなくて癒されたいんだ。切ない世の中だよ、まったく。 しかし。「俺の甥っ子」だと青年は言ったが、それなら夏樹はどちらの子供だ? 葵か? 芙蓉か? 「夏樹くんは誰の子供なんだ?」 慎重に俺は訊ねた。この質問のココロは、「君は誰なんだ?」だ。青年は答えてくれるだろうか。俺は内心固唾を飲む思いで待った。 しばらくの間の後、ゆっくりと青年は答えた。 「芙蓉の子だよ。俺は葵」 そして彼はどこか挑むような目で俺を見つめた。 「君が高山葵くん・・・」 俺は呟いた。 「夏至の前の夜、俺は君と会ったよな?」 高山葵は、ゆっくりと頷いた。 次のページ 前のページ |